無から有を知る

着物、つまり和服というのは面白い衣服で、包むもの、つまりは着物と帯 包まれるものつまりは人間の体とのお互いの支え合う関係によって成り立っています。

衣服には大きく分けて2種類あって洋服のようにその人の体の曲線に沿うように縫製されてつくられる窄衣(さくい)型と 和服のように体をすっぽり布で包むように巻き、紐などで留める懸衣(かけぎぬ型)に分けられます。

窄衣型は曲線と直線で構成されてて3次元的なのに対し、懸衣型はほとんど直線のみで2次元に近いのです。 これを例えて言うと、ハンドバッグ 対 風呂敷、または包み紙です。

洋服の場合、人間の体を中に入れる物に例えると、自分の体にぴったりあったサイズのハンドバッグを探します。 つまりはサイズが豊富に展開していて、人はそれぞれ自分のサイズに近いものを探している感じです。本当にジャストフィットなのがオートクチュール、マイサイズに近いのを店で探すのがプレタって感じですかね。 バッグで言えば物がそれなりにフィットして入って運べる、人間で言ったら着た状態で動作が可能って感じです。フィットして物が運べる。着れて動作ができればパターン、素材を変えてどんな形になろうといけるのでその変化っぷりはなんちゃらコレクション的なファションショーでもお分かり頂けると思います。それに対して着物と帯はほとんど布そのもので形は変わりありません。

パターンというものが無いに等しいんです。

幅35センチ 12メートルくらいの細長い布をパズルのようにざっくりと体のサイズに合わせて直線で余すところなく切り取り、縫い合わせ二次元っぽい羽織るものを作ります。布の取り方はこんな感じ

それを紐で結んで調節しながら体に沿わせ、着ていく感じです。帯は着物を留める役割という感じでなく、ギフトラッピングでいところのリボンですかね、これを包み紙で例えると、物が包めて紐で縛って運ぶ事ができればオッケー、そして中に物が出てしまったらまた2次元の紙、帯であるリボンも包む物がなかったらその結びを維持できません。中に入るものも少しくらい大きくても小さくても包めて紐で縛れさえすれば大丈夫、そして面白いところは、洋服は脱いでもその形状を保っていますが、和服はどんなに綺麗に着付けても、帯でどんな複雑な飾り結びをしようと脱いでしまえばまたただの2次元の布に戻り、そしてまた着る体によって何度も形を変えながらそこに有が存在し、その後着物もまた解いて継ぎ合わされ、1枚の布に戻ります。そして何度も色々なものに作り替えられ、その布の用が果たされるまで布の命は続きます。そして事が済めば結局何事もなかった様に無の状態に戻るのです。

ここになぜか私は魅了されてしまうんですね。すごく日本っぽいというか。仏教でいうところの「諸行無常 諸法無我」という感じが個人的にしてしまうんですねぇ・・

諸行無常:永久不変なものはこの世にない。

諸法無我: 全ての物事は互いに影響しあい、何一つとして単体では存在する物 すなわち我はない、実態はない。

それぞれの思想が違うように、一人一人の見えている世界も違う。

無を知るがゆえに有を知る。

なんだか哲学的になってしまいましたが。

自分でも収集がつかないままとりあえず和服と洋服の違いと、私は「無」に魅了されてるってところで終わります。